« いただきもの♪ | トップページ | 職場の歓送会 »

中島義道『不幸論』

ここのところ本の話題を続けて書いていますが、先日ご紹介した中の1冊が読み終わったので、新たにまた1冊、手をつけました。(^^ゞ

この週末、最近の私にしてはホントに珍しく、何の予定も入っていなかったので、これはもう、普段したくてもなかなかできないことをするに限る!・・・ってことで、昨日(土曜日)は一日、部屋にこもって本を読んでいました。
忙しくしていると、読書って“合い間”にしかできないですが、たまにはこうして一日中、どっぷり本に浸かる時間ってのも必要ですよね。

さて、中島義道の本は以前から何冊か読んでいますが、相変わらずの論調です。表向き今回は、世に蔓延するエセ幸福論に対して、真っ向から反論する形を取っていますが、その根底にあるものはいつもと同じで、やっぱり「マジョリティの暴力」なんですね。

で、今回すごいなと思ったのが、「幸福とは、思考の停止であり、視野の切り捨てであり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である」と言いきっていること。

そこには、この人なりの美学があって、幸福を成り立たせるには、次に挙げる4つの条件を満たしていないといけない、という前提があります。
(1)自分の特定の欲望がかなえられていること。
(2)その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
(3)その欲望が世間から承認されていること。
(4)その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない(傷つけない、苦しめない)こと。

この4つを同時に満たすことは限りなく難しいので、本当の意味で幸福になるということはほとんど不可能である(少なくとも著者自身は幸福にはなれない)、なのに、「自分は幸福である」と言いきれる人は、見るべきものを見ていない、しょせん錯覚(あるいはまやかし)である、というお話です。
・・・と、コンパクトに(というか乱暴に)まとめてしまっていますが、非常に厳しい視点です。たいていの人は、“そこ”を見ないようにしているのに、この人は、“そこ”の部分を(自分のことも他人のことも)きっちり見つめ、特に自分については決して目をそらすことなく、正面から向き合っているのですから。

まぁ、孤独に生きることを決心して数十年、というツワモノですから、そこは違いますよね。ふつうの人から見れば、“強く”見えると思います(いや、それ以前に、ただの“偏屈”なヒトにしか見えないのかも A^^;)。
でもじつは、ふつうの人が見過ごしているようなことまで見えてしまう、とても繊細な神経を持っている人だと私は思っています。見えてしまって、気づいてしまって、ラクじゃないだろな、とも。
そういう道を「選ぶ」というのは、じつはとても微妙な選択で、それしか自分には選択肢がなかったから、という場合が往々にしてあると思うんですね。気づいてしまったから、もうそうするしかない、というか。でも、そこから逃げずに何年も向き合っている、という部分で、私はこの人に共感する部分が多々あって、それでつい読んでしまうのかもしれません。

同じ著者の別の本について、以前web日記に書いた記事を見つけたので、それも転載しておきました。→ こちら

« いただきもの♪ | トップページ | 職場の歓送会 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

ある若い書評家が、この本をラジオの番組で取り上げ、
「この人の定義によるとねー、もうほとんど幸福というのは成立しないんです。おかしいと思いません?(笑) 厳しいでしょー?」
と面白おかしく酷評していました。
まったくピントが外れていましたねえこの人の読み方。そしてこれをラジオで声高にしゃべるあたりはまさしくマジョリティの暴力だなと思いました。
小さな書評欄とかならまだしも、目の前に聞き手がいてうんうん頷いているラジオではそれがその場で正論になってしまう。

で、思考を停止すると、ちょっと幸せな気分になる、というのは《ある意味では》真だと思うんです。
ただいつの間にか、最初から思考を止める(=考えない)ことが簡単に許されるようになってしまった気がします。こわいことです。
「がんばらない○○」というのが一種の流行になりましたけど‥‥ あれはさ、相当に頑張った上で、その上で少し楽に物事を考えましょうよということであって、最初からもう投げ出しましょうよということではないわけで。
そういう、間違った解釈が能天気にブームになっているのを見ると、ゾッとしますね。

★庵魚堂さま

書評家は、批評するのが仕事ですから、まぁ悪くおっしゃるのも無理からぬところではありますが…
そう。ラジオやテレビでしゃべるという行為そのものが暴力ですね。
もちろん受け手にも問題はあると思うんです。
「マスコミからの情報は正しい」(←日本語あってます?)という思い込みはけっこう蔓延していて、そこがまず大きな落とし穴ですね。
どんなに権威のある(これもまた落とし穴なんですが)人やマスメディアだったって、必ずしも正しいとは限らないし、第一、立場が違えば「正しいこと」「正しくないこと」というのはいとも簡単にひっくり返ってしまうわけですから、いい加減なものですよね。
なのに、それを頭から信じてしまう大衆、そしてそれを利用するヒトたち…う~ん、破れ鍋に綴じ蓋、でしょうかsweat01

それから、コメント後半については、思考を停止できる人とできない人がいる、という問題もあるんですね。
中島義道さんは、「真実を見る」ということの方を選んだみたいです。(というか、そういう選択しかできなかったというか、、)
私もそうだし、庵魚堂さんもおそらくそうだと思うのですが、自分の頭で考えず、与えられたものをただ受け取るだけというのは、≪ある意味では≫非常に楽なんです。が、それができない人種もいるってことですよね。
面白いのは、アッチにいる人たちにコッチのことは理解できないと思うけど、コッチの人たちからは、アッチの人がとてもよく見えている、ということでしょうか。^^

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/52330/44344760

この記事へのトラックバック一覧です: 中島義道『不幸論』:

« いただきもの♪ | トップページ | 職場の歓送会 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

つぶやき

  • Twitter

お気に入りサイト